簡単ウズベク史

 

それでは、簡単にウズベキスタンの歴史を見ていきましょう

 

◆ 先史時代
実はこのあたりには、7万年前から人類が生活していました。8~11歳と推定されるネアンデルタール人の頭蓋骨がウズベキスタンのテシク・タシュで発見されています。

◆ 古代

中央アジアを最初に支配したと考えられる人々は紀元前1000年にまでさかのぼります。現代のカザフスタン領を含めた北部の草原出身のイラン系の遊牧民が川沿いの広範囲に渡る地域で暮らし始めました。この時代に、ブハラやサマルカンドといった都市が政治や文化の中心地として出現し始めます。

3000年都市ですか、すごいですね。

紀元前5世紀頃になると、バクトリア人、ソグディアナ人、トハラ人国家がこの地域を支配したとされています。特にソグディアナ人は、この頃に発達したシルクロード貿易の仲介商人として、莫大な富を築いていくことになります。

これらの富は、北部ステップや中国からの侵攻を常に惹きつけるものとなります。数多くの地域間抗争がソグディアナ人国家とその他の地域国家との間で起こります。大国もまた、富に惹かれやってきます。ペルシアと中国はこの地域をめぐって延々と続く対立関係し、あのアレクサンドロス大王も、紀元前328年にこの地方へ侵攻し、一帯を自身のマケドニア王国の支配下においた事もあります。

◆ 初期イスラム時代

カリフの時代

アラブ人ムスリムによる中央アジア征服は紀元後8世紀に完了します。ちなみに、アラブ人はこの土地をマー・ワラー・アンナフルと呼び、ペルシャ征服の一環として侵攻してきました。かくしてマー・ワラー・アンナフルの土地にはアラブ人が住み着いき、イスラム教も広まることとなるのです。
一方、この時代、中国もまた黙っていた訳ではありません。建国されたイスラム王朝とタラス川で衝突します。結果はアラブ人の勝利となりましたが、これが有名なタラス河畔の戦いですね。


アラブ人による支配の期間は長いものではありませんでした。アラブ世界がウマイヤちょうど今日とアッバース朝に割れて、ごたごたし始めたかからです。その間も中央アジアは文化や貿易の重要な中心地となっており、様々なペルシア王朝のもとにあっ政治的に重要な役割を果たしつづけます。実際、アッバース朝は、当時覇権を争っていたウマイヤ朝に対する闘争の大部分を中央アジアの支持者からの支援に頼ったいたようです。

8-9世紀のアッバース朝の最盛期において、中央アジアのマー・ワラー・アンナフルに黄金期が訪れます。そのひとつ、ブハラはイスラム世界における学問、文化、芸術の中心地の1つとなりました。

マー・ワラー・アンナフルのテュルク化

9世紀、北部ステップからの遊牧民が中央アジアへと流入してきます。東はモンゴル、西はカスピ海まで広がる緑の草原に住むテュルク人です。初めはサーマーン朝の奴隷戦士として紹介された、これらのテュルク人は、アッバース朝を含むこの地域のすべての国家において軍人として仕えました。
10世紀後半には、サーマーン朝の統治能力が低下し、これらの戦士の幾人かは地域の政府において権力を持つようになります。最終的には高度にペルシア化された自分たちの国家を建国するに至ります。
この地方における最初のテュルク人国家は、10世紀末に建国されたガズナ朝です。ガズナ朝はサーマーン朝を滅ぼしてできた国家で、最盛期にはにイラン、アフガニスタン、インド北部に及ぶ広い版図を実現します。しかしガズナ朝はその後すぐに同じテュルク人国家のカラハン朝に取って代わられます。カラハン朝は中央アジアの地を2世紀にわたって支配します。後にカラハン朝は分裂し、サマルカンドは西カラハン朝の首都に定められます。

しかし、ペルシア勢力も負けてはいません。セルジューク朝が中央アジア西部に進出すると、ホラズムのガズナ朝の領地はセルジューク朝に奪われます。セルジューク朝はカラハン朝も破りますが、カラハン朝の領土を直接統治下には置かず、カラハン朝を属国としました。
10世紀末にはセルジューク朝が小アジアから、中央アジア西部地域、イラン、イラクに渡る広大な領域を支配ますが、こちらも長くは続かず、ケルマーン・セルジューク朝やイラク・セルジューク朝などの地方政権が独立する時代が訪れます。1141年にセルジューク朝はカトワーンの戦いにおいてカラ・キタイ(西遼)に敗れ、セルジューク朝の勢力は衰退していきます。その後、12世紀後半にアラル海南部地方のホラズム・シャー朝が台頭します。1210年ごろにホラズム・シャー朝は西カラハン朝を滅ぼしてマー・ワラー・アンナフルを支配下に収め、サマルカンドを都に定めました。

◆ モンゴル帝国時代

モンゴル帝国時代
モンゴル帝国はチンギス・カンのもと、13世紀前半に中央アジア一帯を征服します。

モンゴル帝国の中央アジアへの侵入は1219年から1225年まで続き、チンギス・カンの軍隊はモンゴル人の将校に率いられていたものの、配下の兵士の多くはモンゴル軍に取り込まれたテュルク系民族により構成されていました。

モンゴル帝国の征服により、ブハラやホラズムのような都市は甚大な被害をこうむり、ホラズム内の灌漑網は何世代にも渡り修復できないほど破壊されました。そして、多くのペルシア系の知識人は迫害を逃れて南の土地へと脱出していき、この地域の文化はペルシャからテュルクへと変質してゆきます。

モンゴル帝国による支配とティムール朝
1227年にチンギス・カンが没した後、彼の帝国は彼の一族により分割されます。中央アジアの大部分は、チンギス・カンの次男であるチャガタイの子孫に継承されます。チャガタイ・ハン国は秩序だった王位継承や繁栄、国内平和をもたらし、モンゴル帝国は全体的に強力な団結を保っていきました。

14世紀前半からアジア各地のモンゴル国家で分裂が始まり、チャガタイ・ハン国もまた様々な部族集団がチャガタイ家の王子を擁立して争う混乱期に突入します。1370年代に、こうした部族集団の一つであるバルラス部の族長であったティムールが中央アジアに支配権を確立し、内争を終結せます。ティムール朝は西トルキスタン、イラン、インド北部、小アジア、アラル海北部の草原地帯を征服しました。ティムールはサマルカンドを首都に定め、数多くの芸術家や学者を征服した土地から連れてきました。これらの人々を支援することで、ティムールは自身の帝国に非常に豊かなペルシア・イスラム文化を吹き込んだのです。

しかしそれもつかの間15世紀半ばからティムール朝は二つに分裂します。ティムール朝で継続する内部抗争はアラル海北部に生活する遊牧民であったウズベク族の注意を誘いました。1501年、ウズベク人国家のシャイバーニー朝はマー・ワラー・アンナフルに対する大規模な侵攻を開始した。

◆ ウズベク時代

1510年までに、ウズベク人は今日のウズベキスタン共和国の領土を含む中央アジアの征服を完了しました。ウズベク人のシャイバーニー朝は現在のイラン東部にあったサファヴィー朝と敵対しました。この裏にはウズベク人はスンナ派のムスリムであり、イラン人はシーア派であったこともありました。1512年ごろには、シャイバーニー朝の王族であるイルバルスがホラズム地方で独立し、2つ目のウズベク人国家であるヒヴァ・ハン国を建国する。一方、1561年にもともとあったシャイバーニー朝はサマルカンドからブハラへと遷都し、首都の名前を取ってブハラ・ハン国と呼ばれるようになりまふかなす。ブハラ・ハン国はタシュケント地方を制御下に置きさらにはフェルガナ盆地東部からアフガニスタン北部までをその勢力圏としていきます。

16世紀終わり頃には、ブハラやホラズムのウズベク人国家は互いの抗争やサファヴィー朝の侵入、王位継承争いの激化などにより弱体化が始まる。17世紀の初頭にブハラ・ハン国のシャイバーニー家が断絶し、ジャーン朝が取って代わった。

また、この時代になると興隆を極めたシルクロード貿易が、海上ルートへと取って代わられ始めます。いくつかの貿易市場は閉鎖に追い込まれ、かつての大都市も次第に弱体化していったのでした。加えて17-18世紀には、北方からカザフ・ハン国とジュンガルが立て続けにウズベクの諸ハン国に侵入し、18世紀初めにブハラ・ハン国は肥沃なフェルガナ地域を失います。
混乱の中でコーカンドに新たなウズベク国家(コーカンド・ハン国)が建国されます。

◆ ロシア時代
ロシア人の来訪
弱体化と混乱が続く中、この時代、新たな集団であるロシア人が中央アジア地域に現れ始めます。ロシア商人は、かつてのシルクロード程では無いにしろ、このあたりでの貿易に野心を燃やします。また、国境地域付近において遊牧民により誘拐さたロシア人は通常ブハラやヒヴァの奴隷市場で売りさばかれていた事もあり、ロシアは中央アジアへの敵意を燃やしていくこととなります。
19世紀初めには、インドを抑えたイギリスがアフガン地域から迫り始めます。中央アジアはこれら二つの強力な帝国の標的となり、双方が中央アジアを自身の帝国の支配下に置こうとするグレート・ゲームの始まりでした。しかしながら当事者である中央アジアの人々は自身が置かれたこの危険な状況に気づいておらず、ハン国同士で覇を競う戦争と後に無意味となる征服を繰り広げていました。

ロシアによる征服
様々な要因から中央アジアに野心を燃やしていたロシアてしたが、最後の引き金となったのは綿花でした。当時南北戦争によって、ロシアの綿花供給源であったアメリカ合衆国南部からの綿花の供給が妨げられていた時期であり、中央アジアの綿花はロシアにとって極めて重要なものとみなされていたのです。ロシア帝国によるコーカサスの征服が1850年代後半に達成されると、すぐにロシア帝国の軍事省は帝国軍を中央アジアのハン国へと派遣し始めた。当時中央アジアに存在した3ハン国の主要都市であるタシュケント、ブハラ、サマルカンドはそれぞれ1865年、1867年、1868年に陥落しました。ある国は保護国として、ある国は併合されて、中央アジアのロシア支配が始まりました。

ロシアの支配の中で、ウズベキスタンにあった各ハン国は、比較的以前と同様の統治を行いました。ロシアによる技術流入などにより、生産能力の向上なども見られましたが、しだいに不満が募っていき、ジャディード運動という大規模な運動へと発展していきました。しかし、運動の動きとは裏腹に、次の変革はモスクワから起こります。1917年、モスクワで革命が起きると、それに呼応する形で、中央アジアでも共産党による革命が発生し、中央アジアもソヴィエトの時代へと突入します。

ソビエト時代
ウズベキスタンはソビエト時代、どちらかというとソビエト中央政府とは反発した道を歩みます。様々な要因が重なり合い、ソビエト崩壊の折りには、国民投票により98%の賛成でソビエトから独立したということです。しかしながらその一方で、ソビエト時代に権力を握った層による独裁体制が独立後も続いており、崩壊後に民主化革命が起こったキルギスなどとは違い民主化は遅れているようです。